2008年07月08日
山崎蒸溜所@梅雨の晴れ間。

日本スコットランド協会の秋の講演会「輿水精一チーフブレンダーのウイスキーセミナー」以来、半年振りの山崎蒸溜所探訪だ。
阪急・大山崎駅またはJR・山崎駅で下車して、西国街道を西に歩くと、JRの踏切りに出る。
84年前の大正13(1924)年7月20日。
単式蒸溜器2器が川蒸気に乗せられ、淀川を遡った。陸揚げののちは転子(ころ。回転棒)を使って馬に引かせた。
真夜中の(21日)零時半、上り最終列車が通り過ぎるのを見計らい、東海道線の線路を越えてようやく工場内に運ばれた。(「ヒゲのウヰスキー誕生す」より)
このとき、竹鶴政孝(以下、敬称略)は蒸溜器の搬入を指揮し、多分、鳥井信治郎(時間があると建設中の山崎蒸溜所に出かけた、と言われる)も立ち合ったはずだ。
<工場を縦貫する道路は公道である。(昨年秋の写真)>
<踏切り上空辺りから撮られたと思われる航空写真>
写真左上の洋風の建物は、竹鶴政孝・リタ夫妻が住んでいた工場長社宅かも知れない。
<工場見取り図>
大麦の保管庫、製麦棟から始まって、瓶詰棟まで、一貫生産していたのが分かる。
<見取り図と同じアングルから撮られた写真(昭和25年撮影)>
屋外の「ワームタブ型」冷却器(見づらいですが・・・)。
蒸溜所設立時の蒸溜器。手入れがされていなくて蒸溜器が可哀そう。
「本邦ウイスキー発祥之地」の碑が立つ。
山崎には、設立時の建物が一棟も残っていないのが本当に残念だが、この地に立つと、鳥井信治郎、吉太郎親子、竹鶴政孝、リタ夫妻らが行き交っていた姿が目に浮かぶようで、正に余市と共に「日本のウイスキーの聖地」である。
2008年07月07日
白州蒸溜所@スコ文研ツアー。
深緑の白州・鳥原。


スコ文研のツアーに参加して、2年半振りに白州蒸溜所を訪れた。
前崎久工場長に、直々に蒸溜所の案内と白州原酒の説明をしていただく。

圧巻はスコ文研ならではの、前溜液、本溜液、後溜液のサンプル二十数本。
全員で、すべてのサンプルをノージング。
(残念ながらテースティングは、させてもらえなかった)
本溜液を、どこから取り始め、どこで切るかは、企業秘密とのこと。(笑)

初めて見るサントリーの樽焼。

初溜、再溜で12基ある蒸溜器のうち、1基だけ「ワームタブ」型冷却器だ。

貯蔵庫内の一画にある「The Owner's Cask」専用の試飲室。

テースティングは、白州シングルモルト10年、12年、18年、25年。
12年のホッグスヘッド原酒、スモーキー原酒、シェリー樽原酒の7種。

サントリーの前村工場長およびスタッフ、スコ文研の土屋代表およびスタッフの方々、ありがとうございました!
スコ文研のツアーに参加して、2年半振りに白州蒸溜所を訪れた。
前崎久工場長に、直々に蒸溜所の案内と白州原酒の説明をしていただく。
圧巻はスコ文研ならではの、前溜液、本溜液、後溜液のサンプル二十数本。
全員で、すべてのサンプルをノージング。
(残念ながらテースティングは、させてもらえなかった)
本溜液を、どこから取り始め、どこで切るかは、企業秘密とのこと。(笑)
初めて見るサントリーの樽焼。
初溜、再溜で12基ある蒸溜器のうち、1基だけ「ワームタブ」型冷却器だ。
貯蔵庫内の一画にある「The Owner's Cask」専用の試飲室。
テースティングは、白州シングルモルト10年、12年、18年、25年。
12年のホッグスヘッド原酒、スモーキー原酒、シェリー樽原酒の7種。
サントリーの前村工場長およびスタッフ、スコ文研の土屋代表およびスタッフの方々、ありがとうございました!
2008年04月19日
山崎蒸溜所(6)。
サントリー70周年社史を読んでいて、鳥井信治郎(以下、敬称略)のつぎに魅力的なのが、作田耕三(のちの常務取締役)である。
信治郎は、昭和2(1927)年9月1日付で、社長を「主人」または「大将」と呼ぶよう社内通達を出している。長男の吉太郎は副社長であったけれど、「若大将」または「若」と呼ばせたのである。
三井、三菱、住友などの大会社の社長だけが社長であって、壽屋などは大将でいい。会社員やないで、学者やないで、技術者やないで、大阪商人なんやで、というのが信治郎の信念だった。
作田はその壽屋の大番頭だった人物だ。
入社間もないころ、作田の父が死んだ。作田は壽屋の社員には誰一人知らせずに、いっさい隠密裏に葬式をあげようと考えていた。
ところが葬儀場へ行ってみると、作田より早く、壽屋の全社員が集合しているではないか。
作田はつぎの瞬間に目を見はった。信治郎が指揮しているばかりでなく、副社長の吉太郎ともども雑用や力仕事をひきうけて動き廻っていた。
葬儀の時間が近づくと。信治郎は受付に立って会葬者に挨拶していた。
葬儀が終って、寺から家にもどろうというときに、作田の母の乗る自動車の用意がしてなかった。
「お母さんの車をどないするんや」
大声で叫んだかと思うと、信治郎は、もう駆けだしていた。
やがて一台のタクシーが作田の母のまえに着いた。作田の母がいくら遠慮しても信治郎は助手席から降りようとしない。信治郎は、そうやって作田の母を自宅まで、自分で送っていったのである。
葬儀で、もっとも傷心しているのは夫を喪った妻である。
作田耕三は泣いた。心底からの涙が出てきた。作田がこの人と一生を共にしようと決意したのは、その時である。
作田はマルキストで、徳田一球以下、共産党の幹部が家に泊まり込んだこともあったという。
信治郎はそんな作田を片腕として重用する。
「あいつは偏屈や」
信治郎はそういうだけである。
名を捨てて実を取るといっても、まさに極まれりという感がある。大阪商人の真骨頂である。つまり、それだけ作田には社内的な実力があったのである。
戦後、この作田が会社の責任を一人で負って、23日間、警察に拘留される事件が起きた。
作田は自殺するのではないかと思われていた。
差し入れとして、作田は睡眠薬を頼んだ。信治郎は、毎日一粒ずつしか渡さなかった。
「これには弱った」
作田はそう言って笑う。純粋マルキストである作田は留置場なんか屁とも思っていなかった。寝苦しいというだけが辛かったのである。
「わては、会社のためには死なへんで。わてが死をえらぶとしたら、そら日本人民のためや。大将にはそれがわかってへん」
これも戦後の戦後の話になるが、信治郎と作田が大阪の焼野原を歩いていた。
作田が言った。
「これ買占めまひょ。いまやったら安いし、必ず値あがりしよりま」
すると、日頃、ゼニ、ゼニといって血まなこであるはずの信治郎は、ちらりと作田を眺め、
「わてらはウイスキー屋だっせ」
といった。
「不動産屋と違いまっせ」
なんとも奇妙な大将と大番頭である。
2008年04月18日
山崎蒸溜所(5)。
昭和3(1928)年12月1日、日英醸造のビール工場(のちのオラガビール)を買収、横浜工場とする。
山崎、横浜両工場の工場長兼任を命じられた竹鶴政孝(以下、敬称略)は、住居を鶴見に、次いで鎌倉に移した。
昭和4年4月、ビール発売。
10年契約で壽屋に入社した竹鶴政孝が8年目を迎えた昭和5年の秋(?)、鳥井信治郎から、
「吉太郎がもうじき学校卒業やが、どやろ、しばらくあんたはんとこで面倒見てくれへんやろか。一人前に仕事でけるようになるまで、10年間と言わずに居ってもらいたいのやが」
鳥井の長男吉太郎(1908年12月23日生れ)は、神戸の高等商業(現神戸大学)に通っていた。6年の春には卒業の予定である。竹鶴から技術を、妻リタから英会話や欧州事情を授けてほしいという鳥井の頼みだ。
「よろしゅおます」

昭和6年3月1日、吉太郎が壽屋へ入社。直ちに横浜のビール工場に勤務した。
竹鶴は吉太郎を自宅に預って妻リタに英語の手ほどきをさせており、夏からはリタと吉太郎を伴い半年間の予定で欧州に出向くことになっていた。(信治郎の後継者である)吉太郎に本場のウイスキー蒸溜所や葡萄酒醸造所を案内するのが主目的だ。
10月1日鳥井吉太郎、欧米における業界視察のため出発。
昭和7年2月、竹鶴がリタと吉太郎を伴い欧州視察から帰国。
3月15日鳥井吉太郎、取締役副社長に就任。
もともと契約は10年の約束であったし、その期限の来た昭和7年に私(竹鶴)は退社したいと申し入れたが、保留されていた。
昭和8年、関東では「オラガビール」の買収の話がもち上がってきた。
それと前後して私のところへは本社からビール工場拡張工事の命令が出た。
しかし基礎工事にかかっている最中にビール工場の売り渡しが決定したのである。
工場を大きくする計画と仕事を日夜続けていた工場長の私にとってショックであったことはいうまでもない。
約束の10年間は働いたし、吉太郎もいまは副社長として立派に活躍している。
私もそろそろ40歳になる。独立しようとかたく決意したのはそのときだった。
鳥井さんとはけんか別れではなく円満に退社したのである。
清酒保護の時代に、鳥井さんなしには民間人の力でウイスキーが育たなかっただろうと思う。
そしてまた鳥井さんなしには私のウイスキー人生も考えられないのはいうまでもない。
昭和9(1934)年2月1日、ビール事業を分離、譲渡。
3月1日、竹鶴政孝氏退社。
竹鶴は吉太郎を可愛がり、いろりろと面倒を見、世話をした。
鳥井に2度、保留されて、契約期間の10年を過ぎて、足掛け11年間壽屋に在籍した。
竹鶴の退職日が吉太郎の入社日からぴったり3年後というところに、いかにも竹鶴の律儀さが出ていると思う。
竹鶴は壽屋在任の前半を山崎のウイスキー工場、後半を横浜のビール工場に勤務した。
ウイスキーに恋した男には、ウイスキーから引き離された横浜の地はあまりにも寂しかったのは想像に難くない。
昭和15(1940)年9月23日、取締役副社長、鳥井吉太郎死去(享年31歳)。
11月15日、「サントリーウイスキーオールド製作」発表。
「片腕をもぎとられてしもた。日本の医学はあかん」
信治郎は葬式のときにも怒っていた。
信治郎の吉太郎に対する期待は大きかった。若大将、若、若と社員から親しまれ、副社長として信治郎の片腕であった。壽屋が大阪の老舗、おたなの気風を持たず、比較的早い時期に近代化をとげることができたのは、吉太郎の献策に基づくところが大きかった。やがて壽屋をになう存在となる作田耕三、平井鮮一(ともにのちに常務)等々若手学校出の俊秀の採用にそれがあらわれている。
オールドは信治郎、吉太郎親子がブレンドした製品といわれ、社史は「大東亜戦争勃発前夜で、洋酒類にも統制の手がのびはじめ、さすがの信治郎もオールド発売にふみ切れなかった」と記す(一説には、大阪で若干数が出回ったという)。
吉太郎を亡くした信治郎の悲しみがあまりにも深く、一時はまったく事業意欲を失い、オールド発売が立ち消えになったという話をどこかで読んだことがある。
昭和25(1950)年、「サントリーウイスキーオールド」発売。
青字は、サントリー70周年社史より。
黄字は、竹鶴政孝著「ウイスキーと私」より。
緑字は、「ヒゲのウヰスキー誕生す」より。
山崎、横浜両工場の工場長兼任を命じられた竹鶴政孝(以下、敬称略)は、住居を鶴見に、次いで鎌倉に移した。
昭和4年4月、ビール発売。
10年契約で壽屋に入社した竹鶴政孝が8年目を迎えた昭和5年の秋(?)、鳥井信治郎から、
「吉太郎がもうじき学校卒業やが、どやろ、しばらくあんたはんとこで面倒見てくれへんやろか。一人前に仕事でけるようになるまで、10年間と言わずに居ってもらいたいのやが」
鳥井の長男吉太郎(1908年12月23日生れ)は、神戸の高等商業(現神戸大学)に通っていた。6年の春には卒業の予定である。竹鶴から技術を、妻リタから英会話や欧州事情を授けてほしいという鳥井の頼みだ。
「よろしゅおます」
昭和6年3月1日、吉太郎が壽屋へ入社。直ちに横浜のビール工場に勤務した。
竹鶴は吉太郎を自宅に預って妻リタに英語の手ほどきをさせており、夏からはリタと吉太郎を伴い半年間の予定で欧州に出向くことになっていた。(信治郎の後継者である)吉太郎に本場のウイスキー蒸溜所や葡萄酒醸造所を案内するのが主目的だ。
10月1日鳥井吉太郎、欧米における業界視察のため出発。
昭和7年2月、竹鶴がリタと吉太郎を伴い欧州視察から帰国。
3月15日鳥井吉太郎、取締役副社長に就任。
もともと契約は10年の約束であったし、その期限の来た昭和7年に私(竹鶴)は退社したいと申し入れたが、保留されていた。
昭和8年、関東では「オラガビール」の買収の話がもち上がってきた。
それと前後して私のところへは本社からビール工場拡張工事の命令が出た。
しかし基礎工事にかかっている最中にビール工場の売り渡しが決定したのである。
工場を大きくする計画と仕事を日夜続けていた工場長の私にとってショックであったことはいうまでもない。
約束の10年間は働いたし、吉太郎もいまは副社長として立派に活躍している。
私もそろそろ40歳になる。独立しようとかたく決意したのはそのときだった。
鳥井さんとはけんか別れではなく円満に退社したのである。
清酒保護の時代に、鳥井さんなしには民間人の力でウイスキーが育たなかっただろうと思う。
そしてまた鳥井さんなしには私のウイスキー人生も考えられないのはいうまでもない。
昭和9(1934)年2月1日、ビール事業を分離、譲渡。
3月1日、竹鶴政孝氏退社。
竹鶴は吉太郎を可愛がり、いろりろと面倒を見、世話をした。
鳥井に2度、保留されて、契約期間の10年を過ぎて、足掛け11年間壽屋に在籍した。
竹鶴の退職日が吉太郎の入社日からぴったり3年後というところに、いかにも竹鶴の律儀さが出ていると思う。
竹鶴は壽屋在任の前半を山崎のウイスキー工場、後半を横浜のビール工場に勤務した。
ウイスキーに恋した男には、ウイスキーから引き離された横浜の地はあまりにも寂しかったのは想像に難くない。
昭和15(1940)年9月23日、取締役副社長、鳥井吉太郎死去(享年31歳)。
11月15日、「サントリーウイスキーオールド製作」発表。
「片腕をもぎとられてしもた。日本の医学はあかん」
信治郎は葬式のときにも怒っていた。
信治郎の吉太郎に対する期待は大きかった。若大将、若、若と社員から親しまれ、副社長として信治郎の片腕であった。壽屋が大阪の老舗、おたなの気風を持たず、比較的早い時期に近代化をとげることができたのは、吉太郎の献策に基づくところが大きかった。やがて壽屋をになう存在となる作田耕三、平井鮮一(ともにのちに常務)等々若手学校出の俊秀の採用にそれがあらわれている。
オールドは信治郎、吉太郎親子がブレンドした製品といわれ、社史は「大東亜戦争勃発前夜で、洋酒類にも統制の手がのびはじめ、さすがの信治郎もオールド発売にふみ切れなかった」と記す(一説には、大阪で若干数が出回ったという)。
吉太郎を亡くした信治郎の悲しみがあまりにも深く、一時はまったく事業意欲を失い、オールド発売が立ち消えになったという話をどこかで読んだことがある。
昭和25(1950)年、「サントリーウイスキーオールド」発売。
青字は、サントリー70周年社史より。
黄字は、竹鶴政孝著「ウイスキーと私」より。
緑字は、「ヒゲのウヰスキー誕生す」より。
2008年04月17日
山崎蒸溜所(4)。
鳥井信治郎(以下、敬称略)が竹鶴政孝を招聘するに当って合意した条件は三つ。
1.ウイスキー製造に関してはすべて竹鶴に任せる。
2.そのために必要な資金を用意する。
3.竹鶴は製造が軌道に乗るまで10年間は働く。
サントリー70周年社史は書く。
「大正の末(大正13年、山崎工場竣工)から昭和12年(サントリーウイスキー角瓶発売)までにサントリーの今日の基礎が築かれていったと考えてよいと思う」
いくら赤玉ポートワインその他で儲けても、利益をどんどん吸いとる一方である。まことに「ウスケ」は化け物だった。
その間、信治郎は手をこまねいていたわけではなかった。いや、むしろ、ウイスキーのために、他の事業を拡張しなければならない。
大正13(1924)年
10月、パームカレー発売。レチラップ(レモンティーシロップ)発売。
大正15(1926)年
喫煙家用半練の「スモカ歯磨」発売。
昭和3(1928)年
山崎醤油、トリスソース発売。
12月1日、日英醸造株式会社(カスケードビール)を買収し、横浜工場(竹鶴が工場長を兼任)とする。
昭和4(1929)年
4月1日、日本発の本格ウイスキー「サントリー白札」発売。
4月、カスケードビール発売。
昭和5(1930)年
5月、商品名をオラガビールに改称。
トリスカレー、トリス胡椒発売。
昭和6(1931)年
トリス紅茶発売。
昭和6年には仕込みを行わなかった。出来なかったのである。金が底をついたのである。従って壽屋の酒庫には「1931」という年号を記した樽が無いのである。
昭和7(1932)年
5月、合成清酒「千代田」発売。6月、濃縮リンゴジュース「コーリン」発売。
11月、ドル箱のスモカ歯磨の製造販売権を譲渡。
昭和9(1934)年
2月、ビール事業を分離、譲渡。
67万円で買収したビール工場の売却価格は300万円とも360万円ともいわれた。(*1)
「竹鶴はん、知ってのとおり、わてらの台所火の車やったんや。さあ、もう安心やで」
*1 金額は諸説あり。
昭和10(1935)年
リンゴ酒シャンパン「ポンパン」、「ヘルメスデリカワイン(赤・白)」、「ヘルメスシャンパン」発売。
昭和11(1936)年
濃縮ジュース「トリスグレープジュース」「トリスオレンジジュース」、「ヘルメスドライジン」、「ヘルメスイタリアンベルモット」、「カンロチュウ」発売。
昭和12(1937)年
「サントリーウイスキー12年もの(亀甲型)」(角瓶)を発売。
サントリーウイスキー角瓶にいたるまでにこれだけの歴史があった。
戦いに敗れ、傷つき、退いた。紅茶、ソース、醤油、カレーなどがそれだろう。ひとつの柱であったスモカを手ばなした。
昭和12年、13年に、次第に、サントリーは日本人の舌に浸透していった。
14年、15年には、売れて売れて困るという事態を招来する。壽屋の社員には、年間のボーナスが40ヶ月も50ヶ月も支給された。
(現在のサントリー角瓶に印刷された鳥井信治郎のサイン)
鳥井は竹鶴との約束どおり、ウイスキー製造に必要な資金を遮二無二、用意したのである。



