2008年08月15日
ROYAL GORDON WHISKY
2008年復刻版には、「ROYAL GORDON WHISKY」 と題したアルフレッド・バーナードの著作が収録されている。
49枚の挿絵と写真、50ページを費やした記事である。

ローヤルゴードンは、聞き覚えのないウイスキーだ。
副題に、
A VISIT TO THE SCOTCH WHISKY STORES OF Messrs. PATTISON, ELDER & Co., AND GLENFARCLAS DISTILLERY, GLENLIVET.
とある。
PATTISON, ELDER & CO., をネットで検索すると、あのパティソンズ社に行き着いた。
・1898年 リースのパティソンズ社が倒産。ウイスキー業界に不況の嵐が。
のパティソンズ社だ。
(以下、スコ文研「ウイスキーコニサー資格認定試験教本」から引用)
20世紀が近づくにつれて、製造競争の激化と生産設備への過剰投資が未曾有の不況を招くことになる。一転業界は停滞を余儀なくされ、1890年頃まで盛んだった蒸溜所の建設はまったく行われなくなり、その後新しい蒸溜所が建設されたのは第二次大戦後のことだった。1898年に大手ブレンド会社のパティソンズ社が倒産したことは、その象徴とも言われている。
多くの企業がそのあおりを受ける中、企業の吸収合併が繰り返され、スコッチ業界は企業のグループ化が強まった。1877年にローランドのグレーンウイスキー会社6社が手を結んでDCL(ディスティラリーズ・カンパニー・リミテッド)が創られたが、同社は、パティソンズ傘下にあった中小の蒸溜所やブレンド会社を取り込むことで巨大化し、1927年までにビッグ5(ジョン・ウォーカー&サンズ社、ホワイトホース社、ジョン・デュワー&サンズ社、ジェームス・ブキャナン社、ジョン・ヘイグ社)すべてを買収することに成功、最大の勢力へと成長した。
DCL設立~パティソンズ社倒産~業界再編の大きな流れが、100年後のディアジオまで続いているのである。


ところでバーナードの著作中に、なぜ唐突にグラント家経営のグレンファークラスが出てくるのか?
調べると、こんなHPに行き当たった。
1895年、パティソンズ社、グレンファークラスへ出資(グラント家と共同経営)。
1898年、パティソンズ社、倒産。
グラント家が、full control of the Glenfarclas Distillery again という歴史らしい。
以上から、冒頭のバーナードのグレンファークラスについての著作は、パティソンズ社支配下の3年間(1895-1898年)に書かれたものであることが分かる。
同HPによると、パティソン兄弟は宣伝広告に大変熱心で、「Buy Pattisons ! 」と教え込んだ500羽のオウムを各地の酒店に置いたり、年間6万ポンド(およそ24億円。売上額不明)の広告費を使ったそうだ。
またパティソン兄弟は非合法ビジネスに手を染めて、最後は留置所に・・・。
日本の80年代のバブルやITバブルの出来事は、100余年前にスコッチウイスキー・バブルでも起っていたのである。
諸行無常!
49枚の挿絵と写真、50ページを費やした記事である。
ローヤルゴードンは、聞き覚えのないウイスキーだ。
副題に、
A VISIT TO THE SCOTCH WHISKY STORES OF Messrs. PATTISON, ELDER & Co., AND GLENFARCLAS DISTILLERY, GLENLIVET.
とある。
PATTISON, ELDER & CO., をネットで検索すると、あのパティソンズ社に行き着いた。
・1898年 リースのパティソンズ社が倒産。ウイスキー業界に不況の嵐が。
のパティソンズ社だ。
(以下、スコ文研「ウイスキーコニサー資格認定試験教本」から引用)
20世紀が近づくにつれて、製造競争の激化と生産設備への過剰投資が未曾有の不況を招くことになる。一転業界は停滞を余儀なくされ、1890年頃まで盛んだった蒸溜所の建設はまったく行われなくなり、その後新しい蒸溜所が建設されたのは第二次大戦後のことだった。1898年に大手ブレンド会社のパティソンズ社が倒産したことは、その象徴とも言われている。
多くの企業がそのあおりを受ける中、企業の吸収合併が繰り返され、スコッチ業界は企業のグループ化が強まった。1877年にローランドのグレーンウイスキー会社6社が手を結んでDCL(ディスティラリーズ・カンパニー・リミテッド)が創られたが、同社は、パティソンズ傘下にあった中小の蒸溜所やブレンド会社を取り込むことで巨大化し、1927年までにビッグ5(ジョン・ウォーカー&サンズ社、ホワイトホース社、ジョン・デュワー&サンズ社、ジェームス・ブキャナン社、ジョン・ヘイグ社)すべてを買収することに成功、最大の勢力へと成長した。
DCL設立~パティソンズ社倒産~業界再編の大きな流れが、100年後のディアジオまで続いているのである。
ところでバーナードの著作中に、なぜ唐突にグラント家経営のグレンファークラスが出てくるのか?
調べると、こんなHPに行き当たった。
1895年、パティソンズ社、グレンファークラスへ出資(グラント家と共同経営)。
1898年、パティソンズ社、倒産。
グラント家が、full control of the Glenfarclas Distillery again という歴史らしい。
以上から、冒頭のバーナードのグレンファークラスについての著作は、パティソンズ社支配下の3年間(1895-1898年)に書かれたものであることが分かる。
同HPによると、パティソン兄弟は宣伝広告に大変熱心で、「Buy Pattisons ! 」と教え込んだ500羽のオウムを各地の酒店に置いたり、年間6万ポンド(およそ24億円。売上額不明)の広告費を使ったそうだ。
またパティソン兄弟は非合法ビジネスに手を染めて、最後は留置所に・・・。
日本の80年代のバブルやITバブルの出来事は、100余年前にスコッチウイスキー・バブルでも起っていたのである。
諸行無常!
2008年08月14日
JOHN WALKER & SONS

Alfred Barnard (1837-1918)
2008年復刻版に収録されたアルフレッド・バーナード著 「JOHN WALKER & SONS, LIMITED」。
ご存知のようにJOHN WALKER & SONS(JW&S)社は、1909年に発売されてベストセラーになったブレンデッドウイスキー「ジョニーウォーカー」の会社である。
記事は、35枚の挿絵と写真を使い、54ページを費やして、JW&S社の
・KILMARNOCK (JW&S社創業の地で、貯蔵、調合、瓶詰工場)
・CARDOW DISTILLERY
・ANNANDALE DISTILLERY
・LONDON OFFICES (本社)
を紹介している。
挿絵や写真を見ているだけでも楽しく、興味が尽きない。
JW&S社が、1893年に第1蒸溜所として入手したスペイサイドの CARDOW は CARDHU と綴ったほうが通りがいいだろう。
カードゥは、いまでもジョニーウォーカーのキーモルトである。
アナンデールは、JW&S社が第2蒸溜所として1896年に買収した(イングランドとの境に近い)ローランドの蒸溜所だったが、20世紀を迎えて未曾有のウイスキー不況から、1919年に蒸溜を停止して、1921年に閉鎖された。
さて、そのアナンデール蒸溜所で、90年ぶりに再開計画が進んでいるそうだ。
90年とはずいぶんと気の長い話だけれど、ウイスキー屋には(「十年一昔」でななく)「百年一昔」といったところか。
2008年08月13日
WHISKY DISTILLERIES of the UK

アルフレッド・バーナードの著書の2008年復刻版。
大型の豪華本である。
1887年に出版された表題作「THE WHISKY DISTILLERIES of the United Kingdom」のほかに、5編のウイスキーに関する著作を収録。
挿絵や写真が多いので、見ているだけでも楽しい。
「THE WHISKY DISTILLERIES・・・」には、スコットランド129蒸溜所、アイルランド28蒸溜所、イングランド4蒸溜所が、著者の訪問した順番に紹介されている。
たとえばアイラ島は、アードベッグ、ラガヴーリン、ラフロイグ、ポートエレン(1983年に蒸溜は停止)、ボウモア、ロッホインダール、ブルイックラディ、カリラ、ブナハーブンの順に、島を時計回りに巡る。

ロッホインダール(Lochindaal、1929年閉鎖)は、ブルイックラディがポートシャーロット蒸溜所の名前で再開した。
アイラ島には、バーナードが120年前に訪れた蒸溜所が、いまも 「何らかの形」 で残っているのが嬉しい。(なくなった蒸溜所も多いらしいが)
キャメロンブリッジ、キャンバス、ポートダンダスなど、グレーン・ウィスキーの蒸溜所も収録されている。
アイルランド独立(1922年)以前に書かれた本なので、アイルランド島(現在のアイルランド共和国と英国・北アイルランド)の28蒸溜所が載っているが、現存するのは、ミドルトン、ブッシュミルズ、ブルスナ(現キルベガン)だけで、アイリッシュ・ウイスキーの衰退が寂しい。
著作権の期限が切れており、ネット上のいくつかのサイトで公開されているので、まずは購入前に覗いてみることをお勧めする。
タグ :A.バーナード
2008年07月10日
大山崎山荘美術館。
山崎蒸溜所へ来たら、必ず寄るところが大山崎山荘美術館。
阪急・大山崎駅またはJR・山崎駅で下車して、10分ほど天王山麓を登ると(駅から無料送迎バスあり)、美術館はある。(写真は秋に撮影)

美術館本館は、ニッカウヰスキーの筆頭株主だった関西の実業家・加賀正太郎(以下、敬称略)が、自ら設計して建てた山荘で、文豪・夏目漱石も夫妻で訪れたという。
加賀の没後、所有者が何人か変わり、バブル期には取り壊してマンションを建設する計画が持ち上がったが、京都府から保存の協力を依頼されたアサヒビ-ルが、初代社長・山本為三郎と加賀の浅からぬ縁から山荘を買い上げて、美術館として蘇らせた。
現在は、山本が収集したコレクションを中心に展示している。
山荘の建物自体が、まず必見である。
「地下の宝石箱」と呼ばれる安藤忠雄設計の新館は、まわりの景観との調和に配慮した半地下式の美術館で、モネの睡蓮などを展示している。
加賀は多趣味な教養人で、ヨーロッパ・アルプスのユングフラウ(4,158m)に初めて登頂した日本人である。
また蘭の研究者としても知られ、山荘内で1,140種1万株を栽培していた。
山荘の見所のひとつが本館二階のテラス。
眼下に木津川、宇治川、桂川が、大山崎の前で合流し(鳥井信治郎が山崎の地を選んだ決め手は、合流で発生する霧と湿潤な気候だった)、淀川と名前を変えて大阪へと流れる雄大な眺望が広がる。
竹鶴政孝・リタ夫妻と加賀夫妻は、自宅が近所で、リタが加賀夫人に英語を教えていたことから、政孝の山崎蒸溜所時代から夫婦ぐるみの親しいつき合いだった。
休日の午後、4人はテラスに座って、歓談したり、たまにはウイスキーをやっていた(と思う)。
ときには鳥井信治郎・吉太郎親子や山本為三郎も集(つど)って、山荘はサロンと化していたのでは・・・と、想像するだけで楽しい。
晴れた日、清々しいテラスで物思いに耽っていると、あっという間に時間が経ってしまう。

せっかく山崎に来て、大山崎山荘美術館を訪ねないのは、ウイスキー好きにはもったいない話である。
阪急・大山崎駅またはJR・山崎駅で下車して、10分ほど天王山麓を登ると(駅から無料送迎バスあり)、美術館はある。(写真は秋に撮影)
美術館本館は、ニッカウヰスキーの筆頭株主だった関西の実業家・加賀正太郎(以下、敬称略)が、自ら設計して建てた山荘で、文豪・夏目漱石も夫妻で訪れたという。
加賀の没後、所有者が何人か変わり、バブル期には取り壊してマンションを建設する計画が持ち上がったが、京都府から保存の協力を依頼されたアサヒビ-ルが、初代社長・山本為三郎と加賀の浅からぬ縁から山荘を買い上げて、美術館として蘇らせた。
現在は、山本が収集したコレクションを中心に展示している。
山荘の建物自体が、まず必見である。
「地下の宝石箱」と呼ばれる安藤忠雄設計の新館は、まわりの景観との調和に配慮した半地下式の美術館で、モネの睡蓮などを展示している。
加賀は多趣味な教養人で、ヨーロッパ・アルプスのユングフラウ(4,158m)に初めて登頂した日本人である。
また蘭の研究者としても知られ、山荘内で1,140種1万株を栽培していた。
山荘の見所のひとつが本館二階のテラス。
眼下に木津川、宇治川、桂川が、大山崎の前で合流し(鳥井信治郎が山崎の地を選んだ決め手は、合流で発生する霧と湿潤な気候だった)、淀川と名前を変えて大阪へと流れる雄大な眺望が広がる。
竹鶴政孝・リタ夫妻と加賀夫妻は、自宅が近所で、リタが加賀夫人に英語を教えていたことから、政孝の山崎蒸溜所時代から夫婦ぐるみの親しいつき合いだった。
休日の午後、4人はテラスに座って、歓談したり、たまにはウイスキーをやっていた(と思う)。
ときには鳥井信治郎・吉太郎親子や山本為三郎も集(つど)って、山荘はサロンと化していたのでは・・・と、想像するだけで楽しい。
晴れた日、清々しいテラスで物思いに耽っていると、あっという間に時間が経ってしまう。
せっかく山崎に来て、大山崎山荘美術館を訪ねないのは、ウイスキー好きにはもったいない話である。
2008年03月17日
聖パトリックの祝日のパレード。
3月17日は聖パトリックの命日を祝うアイルランドの祝日だが、昨日の日曜日、原宿表参道でセント・パトリック・デイ・パレード東京が行われ、天気もよかったので行ってみた。
アイルランドのナショナルカラーは緑、国花はシャムロック(三つ葉のクローバー)。




アイルランドといったら、もちろんギネスビールだ。
西暦461年、聖パトリックは臨終の床で、
「私のことは悲しまず、天国へ行く私のために祝って欲しい。そして心の痛みを和らげるよう、何かの雫を飲むように」
という言葉を残した。
そのためアイルランドではウイスキーが好まれるようになったという伝説があるという。
アイルランドのナショナルカラーは緑、国花はシャムロック(三つ葉のクローバー)。
アイルランドといったら、もちろんギネスビールだ。
西暦461年、聖パトリックは臨終の床で、
「私のことは悲しまず、天国へ行く私のために祝って欲しい。そして心の痛みを和らげるよう、何かの雫を飲むように」
という言葉を残した。
そのためアイルランドではウイスキーが好まれるようになったという伝説があるという。
タグ :アイルランド



