2008年04月25日
マルスウイスキー信州蒸溜所。
鹿児島に、明治5(1872)年創業の老舗で、芋焼酎大手の本坊酒造という会社がある。
事業意欲の旺盛な会社で、焼酎工場以外にも、山梨県石和にワイナリー、長野県駒ヶ根にウイスキー蒸溜所を持ち、ウイスキー・ファンにはお馴染みの「マルスウイスキー」というブランドで販売している。

同社のHPには、
「マルスウイスキーは、摂津酒造で竹鶴政孝氏の直属の上司だった岩井喜一郎氏の指導のもとに設計されたポットスティルにより、原酒の製造を始めました。以来、今日まで30有余年」とある。
岩井喜一郎(以下、敬称略)の娘さんの嫁ぎ先が本坊家という縁だそうだ。
昭和24(1949)年7月、ウイスキー製造免許を取得。
ウイスキー専用工場ができるまでは、鹿児島工場で焼酎の製造設備を使ってウイスキーをつくっていたことは容易に想像がつく。
昭和35(1960)年3月、山梨県石和にウイスキー工場を建設。
昭和60(1985)年3月、現在の長野県駒ヶ根に信州蒸溜所を新設している。
HPの文脈から考えて、山梨県にあったウイスキー設備が長野県の信州蒸溜所に移設されたことになる。
信州蒸溜所は、初溜釜1器、再溜釜1器で、キリン(旧メルシャン)軽井沢蒸溜所の半分ほどの規模だが、MALT WHISKY YEARBOOK 2008にも紹介された本格的な蒸溜所だ。
現在、蒸溜は休止中で、早い再開が待ち望まれている。
岩井喜一郎の経歴については、つぎのことぐらいしか分からない。
明治16(1883)年、大阪に生まれる。(面識があった鳥井信治郎より4歳下)
明治35(1902)年、大阪高等工業(現大阪大学)醸造科を卒業(第1期生)。
大正5(1916)年(竹鶴入社時)、摂津酒造常務。
「製造担当」と書く本と、「経理担当」と書く本があり、兼務または担当替えがあったのだろう。
昭和35(1960)年、岩井の指導のもと、山梨県石和にウイスキー工場建設。
ニッカ余市蒸溜所にあるウイスキー博物館に、通称「竹鶴ノート」と呼ばれる、竹鶴政孝のヘーゼルバーン蒸溜所での実習報告が飾られている。
この竹鶴ノートは、つぎのように人の手を渡った。
・スコットランドから帰国した竹鶴政孝が、上司の岩井へ報告書として提出。
・岩井は、竹鶴ノートをもとに本坊酒造のウイスキー工場(山梨県石和)の設計を指導。
・岩井が、親戚に竹鶴ノートを預ける。
・その後、岩井の親戚がニッカに竹鶴ノートの存在を知らせ、返却される。
話はかわるが、雑誌「ウイスキーワールド」で、「竹鶴ノートを読み解く」という連載(15号~)が始まった。
楽しみだ!
事業意欲の旺盛な会社で、焼酎工場以外にも、山梨県石和にワイナリー、長野県駒ヶ根にウイスキー蒸溜所を持ち、ウイスキー・ファンにはお馴染みの「マルスウイスキー」というブランドで販売している。

同社のHPには、
「マルスウイスキーは、摂津酒造で竹鶴政孝氏の直属の上司だった岩井喜一郎氏の指導のもとに設計されたポットスティルにより、原酒の製造を始めました。以来、今日まで30有余年」とある。
岩井喜一郎(以下、敬称略)の娘さんの嫁ぎ先が本坊家という縁だそうだ。
昭和24(1949)年7月、ウイスキー製造免許を取得。
ウイスキー専用工場ができるまでは、鹿児島工場で焼酎の製造設備を使ってウイスキーをつくっていたことは容易に想像がつく。
昭和35(1960)年3月、山梨県石和にウイスキー工場を建設。
昭和60(1985)年3月、現在の長野県駒ヶ根に信州蒸溜所を新設している。
HPの文脈から考えて、山梨県にあったウイスキー設備が長野県の信州蒸溜所に移設されたことになる。
信州蒸溜所は、初溜釜1器、再溜釜1器で、キリン(旧メルシャン)軽井沢蒸溜所の半分ほどの規模だが、MALT WHISKY YEARBOOK 2008にも紹介された本格的な蒸溜所だ。
現在、蒸溜は休止中で、早い再開が待ち望まれている。
岩井喜一郎の経歴については、つぎのことぐらいしか分からない。
明治16(1883)年、大阪に生まれる。(面識があった鳥井信治郎より4歳下)
明治35(1902)年、大阪高等工業(現大阪大学)醸造科を卒業(第1期生)。
大正5(1916)年(竹鶴入社時)、摂津酒造常務。
「製造担当」と書く本と、「経理担当」と書く本があり、兼務または担当替えがあったのだろう。
昭和35(1960)年、岩井の指導のもと、山梨県石和にウイスキー工場建設。
ニッカ余市蒸溜所にあるウイスキー博物館に、通称「竹鶴ノート」と呼ばれる、竹鶴政孝のヘーゼルバーン蒸溜所での実習報告が飾られている。
この竹鶴ノートは、つぎのように人の手を渡った。
・スコットランドから帰国した竹鶴政孝が、上司の岩井へ報告書として提出。
・岩井は、竹鶴ノートをもとに本坊酒造のウイスキー工場(山梨県石和)の設計を指導。
・岩井が、親戚に竹鶴ノートを預ける。
・その後、岩井の親戚がニッカに竹鶴ノートの存在を知らせ、返却される。
話はかわるが、雑誌「ウイスキーワールド」で、「竹鶴ノートを読み解く」という連載(15号~)が始まった。
楽しみだ!
2008年04月24日
摂津酒造(2)。
大正9(1920)年11月(*1)、竹鶴政孝・リタ夫妻、摂津酒造の阿部喜兵衛社長(欧州視察)と伴に、横浜港へ帰国。
*1 「ヒゲのウヰスキー誕生す」より。
「ヒゲと勲章」では大正10年9月、「ウイスキーと私」では大正10年11月とある。
帰国後の摂津酒造での待遇は技師長で、月給は150円。家賃55円の帝塚山の家は、阿部社長が手配して下さった邸宅(家主はのちにニッカ・ウヰスキー株主の芝川又四郎)であった。
帰国してみると、会社の景気といい空気といい、イギリスにたったころの熱っぽさや活気は全く失われ、様相は一変していた。それは摂津酒造が第一次大戦後の大恐慌のあおりをいちばん受けている年(大正10~12年)だったからである。
こういった悪い状況のなかであったが、すぐ本格ウイスキーの製造計画に取りかかった。
そのかたわら、先輩の岩井常務に説得を始めた。今の工場のあき地にポット・スチルをすえつければ小規模ながらウイスキーがつくれる。やらせてほしいと頼みこんだ。
重役会でも阿部社長は
「竹鶴君が苦労して勉強してきたのだから、なんとかやらせてみたい」
と助け舟をだされたが、全役員から反対されてしまった。
「本格モルト・ウイスキー製造計画書」は役員会で否認されたのである。
常務の岩井喜一郎は、次のような回顧談を残している。
「竹鶴氏は帰国してから、外国ではウイスキーは全部自社ブランドで売っておる。ジョニーウォーカーにしてもホワイトホースにしてもそうだ。だから摂津酒造の如く、よそのブランドのために手間賃いくらで造ったウイスキーを(原料酒として)売っておるというようなことでは、将来マイナスになる。いい品物を造って自社ブランドで出していかなくてはいかん、と力説した。これは大変いいことだと思う。さりながら、当時の摂津の資力ではとてもそんなこと(本格ウイスキーの製造)は出来なかった」
さんざん悩み考えたすえ、阿部社長にお会いし辞表を出した。
大正11年のことであった。
「残念だが・・・」
ポツリとただひとこといわれた。
あのときの阿部社長の沈んだ顔、恩愛に満ちたあのまなざしは、終生忘れることはできない。阿部社長は私の最大の恩人なのである。
私は摂津酒造をやめたとはいえ、非常に恩義を感じていた。
後年、独立して待望のウイスキー原酒をつくりあげたとき、北海道からわざわざ大阪の摂津酒造までそれを持っていった。ニッカウヰスキー発売(1940年10月)以前のことである。
「どうぞ私の原酒を摂津酒造のアルコールに入れてみて下さい。絶対によくなります」
ところが私の真意は理解されず、問題にされなかった。
摂津酒造は、洋酒関係は自分のブランドをつけずに卸屋へ売り、卸屋で瓶詰していた。摂津酒造が瓶詰をやれば卸屋の妨害になるから、できなかった。
やはりブランドを持っていなかったことが、新しい時代にマッチできなかったのだろう。
竹鶴が摂津酒造を訪れたとき、阿部社長は退任していた。
昭和29年12月、摂津酒造は灘第二工場を寶酒造に売却。
昭和39(1964)年10月、摂津酒造は寶酒造に吸収合併。
桃字は、竹鶴政孝著「ヒゲと勲章」より。
黄字は、竹鶴政孝著「ウイスキーと私」より。
摂津酒造(1)。
摂津酒造(2)。
*1 「ヒゲのウヰスキー誕生す」より。
「ヒゲと勲章」では大正10年9月、「ウイスキーと私」では大正10年11月とある。
帰国後の摂津酒造での待遇は技師長で、月給は150円。家賃55円の帝塚山の家は、阿部社長が手配して下さった邸宅(家主はのちにニッカ・ウヰスキー株主の芝川又四郎)であった。
帰国してみると、会社の景気といい空気といい、イギリスにたったころの熱っぽさや活気は全く失われ、様相は一変していた。それは摂津酒造が第一次大戦後の大恐慌のあおりをいちばん受けている年(大正10~12年)だったからである。
こういった悪い状況のなかであったが、すぐ本格ウイスキーの製造計画に取りかかった。
そのかたわら、先輩の岩井常務に説得を始めた。今の工場のあき地にポット・スチルをすえつければ小規模ながらウイスキーがつくれる。やらせてほしいと頼みこんだ。
重役会でも阿部社長は
「竹鶴君が苦労して勉強してきたのだから、なんとかやらせてみたい」
と助け舟をだされたが、全役員から反対されてしまった。
「本格モルト・ウイスキー製造計画書」は役員会で否認されたのである。
常務の岩井喜一郎は、次のような回顧談を残している。
「竹鶴氏は帰国してから、外国ではウイスキーは全部自社ブランドで売っておる。ジョニーウォーカーにしてもホワイトホースにしてもそうだ。だから摂津酒造の如く、よそのブランドのために手間賃いくらで造ったウイスキーを(原料酒として)売っておるというようなことでは、将来マイナスになる。いい品物を造って自社ブランドで出していかなくてはいかん、と力説した。これは大変いいことだと思う。さりながら、当時の摂津の資力ではとてもそんなこと(本格ウイスキーの製造)は出来なかった」
さんざん悩み考えたすえ、阿部社長にお会いし辞表を出した。
大正11年のことであった。
「残念だが・・・」
ポツリとただひとこといわれた。
あのときの阿部社長の沈んだ顔、恩愛に満ちたあのまなざしは、終生忘れることはできない。阿部社長は私の最大の恩人なのである。
私は摂津酒造をやめたとはいえ、非常に恩義を感じていた。
後年、独立して待望のウイスキー原酒をつくりあげたとき、北海道からわざわざ大阪の摂津酒造までそれを持っていった。ニッカウヰスキー発売(1940年10月)以前のことである。
「どうぞ私の原酒を摂津酒造のアルコールに入れてみて下さい。絶対によくなります」
ところが私の真意は理解されず、問題にされなかった。
摂津酒造は、洋酒関係は自分のブランドをつけずに卸屋へ売り、卸屋で瓶詰していた。摂津酒造が瓶詰をやれば卸屋の妨害になるから、できなかった。
やはりブランドを持っていなかったことが、新しい時代にマッチできなかったのだろう。
竹鶴が摂津酒造を訪れたとき、阿部社長は退任していた。
昭和29年12月、摂津酒造は灘第二工場を寶酒造に売却。
昭和39(1964)年10月、摂津酒造は寶酒造に吸収合併。
桃字は、竹鶴政孝著「ヒゲと勲章」より。
黄字は、竹鶴政孝著「ウイスキーと私」より。
摂津酒造(1)。
摂津酒造(2)。
2008年04月23日
摂津酒造(1)。
(右が摂津酒造の阿部喜兵衛社長。左は竹鶴政孝)
日本のウイスキーの父、竹鶴政孝(以下、敬称略)は書く。
摂津酒造の阿部喜兵衛社長が日本での本格ウイスキーづくりを決意されなかったら、どんなに私がウイスキーづくりに興味をもっていたにせよ、スコットランドに留学することはありえなかった。
摂津酒造は、名門であり資産家である阿部喜兵衛氏が、大阪に個人経営でつくった摂津酒精醸造所にはじまる。
明治40(1907)年からアルコール製造に着手し、44年からは自社で蒸溜したアルコールをもとに、ブランディ、ウイスキー、甘味葡萄酒などを委託製造した。製法はいぜん模造(イミテーション)だったが、アルコール特有の臭み(フーゼル・オイル)を消すセパレーターの研究が進んでいたため、品質はそれまでの国産にくらべ、格段の差があった。
大正2(1913)年にはウイスキーだけで250石(1石=約180リットル)を製造、翌3年には軍の注文も受けている。主な取引先は「赤門葡萄酒」の小西儀助商店、「ヘルメス・ウイスキー」「赤玉ポートワイン」の壽屋などで、それぞれの注文に応じて調合製造し、一石入りの洋樽に詰めて送り出した。
大正4年、第一次世界大戦が勃発した。日本経済は大戦景気に沸き、アルコール蒸溜業界も活況を呈した。すでに定評を得ていた攝津酒造の製品は生産が追いつかないほどであった。
大正5年、摂津酒造は会社始まって以来の黄金期を迎えようとしていた。
当時、摂津酒造、神谷酒造、大日本製薬が三大アルコール製造会社だった。
大正2年、竹鶴政孝、大阪高等工業(現大阪大学)醸造科に入学。
大正5年、卒業の年の正月のことであった。
郷里に帰り、部屋のコタツでねそべっていた。家業を継ぐことになった私はこのとき、これからの長い人生を竹原という田舎町で、酒づくりに終わってしまうのかという感慨が胸をかすめた。
日本酒の仕込みは冬だから卒業の4月末から12月までは、仕事はあまりない。学校で人一倍洋酒に興味をもって勉強してきた私は、この期間だけでもいいから洋酒づくりの仕事を一度実際にやってみたいと思い立った。
「やってみたい」
そう思い始めると矢も楯もたまらなくなった。
当時、洋酒のメーカーの第一人者は、大阪の摂津酒造であった。
学校の一期生に摂津酒造の常務・岩井喜一郎氏(竹鶴は14期生)がおられた。
「よし、岩井さんに頼んでみよう」
岩井さんは、即刻社長の阿部喜兵衛氏を紹介して下さった。
私は、家の事情や、洋酒づくりへの憧憬を正直に披瀝した。
「洋酒製造の第一人者たる摂津で働きたいのです」
「それじゃ、明日から来てみなさい」
大正5年3月初旬のことだった。初任給23円。
天下の摂津酒造といっても、その規模といえば、事務所に5、6人、工場のほうに30人もいただろうか。
私は、職工と同じように作業服を着て、喜び勇んで仕事を続けた。蒸溜のときなど、夜は蒸溜塔の上でまんじりともせずに過ごしたおぼえがある。
やがて私は、酒精含有飲料関係の主任に任命された。
ある日、社長室に呼ばれた。
「いまは好景気だから、ウイスキーもさかんに売れている。けれども、アルコールに水を入れカラメルで色をつけ、エッセンスを入れて香りを加える。
いつまでもこんなイミテーション・ウイスキーではいけないから、本格的な品質のよいウイスキーをつくりたい。君、ひとつスコットランドに行って、本場のウイスキーの製造を勉強してきてくれないか!」
大正7年6月29日、竹鶴は家族、摂津酒造の役員、社員、壽屋の鳥井信治郎、山為硝子の山本為三郎(のちのアサヒビール初代社長)らに見送られて、神戸港からスコットランドへ向けて出航。
桃字は、竹鶴政孝著「ヒゲと勲章」より。
黄字は、竹鶴政孝著「ウイスキーと私」より。
緑字は、「ヒゲのウヰスキー誕生す」より。
摂津酒造(1)。
摂津酒造(2)。
2008年04月19日
山崎蒸溜所(6)。
サントリー70周年社史を読んでいて、鳥井信治郎(以下、敬称略)のつぎに魅力的なのが、作田耕三(のちの常務取締役)である。
信治郎は、昭和2(1927)年9月1日付で、社長を「主人」または「大将」と呼ぶよう社内通達を出している。長男の吉太郎は副社長であったけれど、「若大将」または「若」と呼ばせたのである。
三井、三菱、住友などの大会社の社長だけが社長であって、壽屋などは大将でいい。会社員やないで、学者やないで、技術者やないで、大阪商人なんやで、というのが信治郎の信念だった。
作田はその壽屋の大番頭だった人物だ。
入社間もないころ、作田の父が死んだ。作田は壽屋の社員には誰一人知らせずに、いっさい隠密裏に葬式をあげようと考えていた。
ところが葬儀場へ行ってみると、作田より早く、壽屋の全社員が集合しているではないか。
作田はつぎの瞬間に目を見はった。信治郎が指揮しているばかりでなく、副社長の吉太郎ともども雑用や力仕事をひきうけて動き廻っていた。
葬儀の時間が近づくと。信治郎は受付に立って会葬者に挨拶していた。
葬儀が終って、寺から家にもどろうというときに、作田の母の乗る自動車の用意がしてなかった。
「お母さんの車をどないするんや」
大声で叫んだかと思うと、信治郎は、もう駆けだしていた。
やがて一台のタクシーが作田の母のまえに着いた。作田の母がいくら遠慮しても信治郎は助手席から降りようとしない。信治郎は、そうやって作田の母を自宅まで、自分で送っていったのである。
葬儀で、もっとも傷心しているのは夫を喪った妻である。
作田耕三は泣いた。心底からの涙が出てきた。作田がこの人と一生を共にしようと決意したのは、その時である。
作田はマルキストで、徳田一球以下、共産党の幹部が家に泊まり込んだこともあったという。
信治郎はそんな作田を片腕として重用する。
「あいつは偏屈や」
信治郎はそういうだけである。
名を捨てて実を取るといっても、まさに極まれりという感がある。大阪商人の真骨頂である。つまり、それだけ作田には社内的な実力があったのである。
戦後、この作田が会社の責任を一人で負って、23日間、警察に拘留される事件が起きた。
作田は自殺するのではないかと思われていた。
差し入れとして、作田は睡眠薬を頼んだ。信治郎は、毎日一粒ずつしか渡さなかった。
「これには弱った」
作田はそう言って笑う。純粋マルキストである作田は留置場なんか屁とも思っていなかった。寝苦しいというだけが辛かったのである。
「わては、会社のためには死なへんで。わてが死をえらぶとしたら、そら日本人民のためや。大将にはそれがわかってへん」
これも戦後の戦後の話になるが、信治郎と作田が大阪の焼野原を歩いていた。
作田が言った。
「これ買占めまひょ。いまやったら安いし、必ず値あがりしよりま」
すると、日頃、ゼニ、ゼニといって血まなこであるはずの信治郎は、ちらりと作田を眺め、
「わてらはウイスキー屋だっせ」
といった。
「不動産屋と違いまっせ」
なんとも奇妙な大将と大番頭である。
2008年04月18日
山崎蒸溜所(5)。
昭和3(1928)年
12月1日
日英醸造のビール工場を買収、横浜工場とする。
山崎、横浜両工場の工場長兼任を命じられた竹鶴政孝(以下、敬称略)は、住居を鶴見に、次いで鎌倉に移した。
昭和4(1929)年
4月
「新カスケードビール」を製造発売。
10年契約で壽屋に入社した竹鶴政孝が8年目を迎えた昭和5年の秋、鳥井信治郎から、
「吉太郎がもうじき学校卒業やが、どやろ、しばらくあんたはんとこで面倒見てくれへんやろか。一人前に仕事でけるようになるまで、10年間と言わずに居ってもらいたいのやが」
鳥井の長男吉太郎(1908年12月23日生れ)は、神戸の高等商業(現神戸大学)に通っていた。6年の春には卒業の予定である。竹鶴から技術を、妻リタから英会話や欧州事情を授けてほしいという鳥井の頼みだ。
「よろしゅおます」

昭和5(1930)年
5月1日
新カスケードビールにつづいて、「オラガビール」を発売する。
昭和6(1931)年
3月1日
吉太郎が壽屋へ入社。直ちに横浜のビール工場に勤務した。
竹鶴は吉太郎を自宅に預って妻リタに英語の手ほどきをさせており、夏からはリタと吉太郎を伴い半年間の予定で欧州に出向くことになっていた。(信治郎の後継者である)吉太郎に本場のウイスキー蒸溜所や葡萄酒醸造所を案内するのが主目的だ。
10月1日
鳥井吉太郎、欧米における業界視察のため出発。(竹鶴政孝、リタ夫妻同行)
昭和7(1932)年
2月
竹鶴がリタと吉太郎を伴い欧州視察から帰国。
3月15日
鳥井吉太郎、取締役副社長に就任。
昭和8(1933)年
8月23日
鳥井信治郎妻クニ死亡(享年46歳)。
もともと契約は10年の約束であったし、その期限の来た昭和7年に私(竹鶴)は退社したいと申し入れたが、保留されていた。
昭和8年、関東では「オラガビール」の買収の話がもち上がってきた。
それと前後して私のところへは本社からビール工場拡張工事の命令が出た。
しかし基礎工事にかかっている最中にビール工場の売り渡しが決定したのである。
工場を大きくする計画と仕事を日夜続けていた工場長の私にとってショックであったことはいうまでもない。
約束の10年間は働いたし、吉太郎もいまは副社長として立派に活躍している。
私もそろそろ40歳になる。独立しようとかたく決意したのはそのときだった。
鳥井さんとはけんか別れではなく円満に退社したのである。
清酒保護の時代に、鳥井さんなしには民間人の力でウイスキーが育たなかっただろうと思う。
そしてまた鳥井さんなしには私のウイスキー人生も考えられないのはいうまでもない。
昭和9(1934)年
2月1日
ビール事業を分離、譲渡。
3月1日
竹鶴政孝氏退社。
竹鶴は吉太郎を可愛がり、いろりろと面倒を見、世話をした。
鳥井に2度、保留されて、契約期間の10年を過ぎて、足掛け11年間壽屋に在籍した。
竹鶴の退職日が吉太郎の入社日からぴったり3年後というところに、いかにも竹鶴の律儀さが出ていると思う。
竹鶴は壽屋在任の前半を山崎のウイスキー工場、後半を横浜のビール工場に勤務した。
ウイスキーに恋した男には、ウイスキーから引き離された横浜の地はあまりにも寂しかったのは想像に難くない。
昭和15(1940)年
9月23日
取締役副社長、鳥井吉太郎死去(享年33歳)。(満31歳)
11月15日
「サントリーウイスキーオールド製作」発表。
「片腕をもぎとられてしもた。日本の医学はあかん」
信治郎は葬式のときにも怒っていた。
信治郎の吉太郎に対する期待は大きかった。若大将、若、若と社員から親しまれ、副社長として信治郎の片腕であった。壽屋が大阪の老舗、おたなの気風を持たず、比較的早い時期に近代化をとげることができたのは、吉太郎の献策に基づくところが大きかった。やがて壽屋をになう存在となる作田耕三、平井鮮一(ともにのちに常務)等々若手学校出の俊秀の採用にそれがあらわれている。
オールドは信治郎、吉太郎親子がブレンドした製品といわれ、社史は「大東亜戦争勃発前夜で、洋酒類にも統制の手がのびはじめ、さすがの信治郎もオールド発売にふみ切れなかった」と記す(一説には、大阪で若干数が出回ったという)。
吉太郎を亡くした信治郎の悲しみがあまりにも深く、一時はまったく事業意欲を失い、オールド発売が立ち消えになったという話をどこかで読んだことがある。
昭和25(1950)年
「サントリーウイスキーオールド」発売。
青字は、サントリー70周年社史より。
黄字は、竹鶴政孝著「ウイスキーと私」より。
緑字は、「ヒゲのウヰスキー誕生す」より。
12月1日
日英醸造のビール工場を買収、横浜工場とする。
山崎、横浜両工場の工場長兼任を命じられた竹鶴政孝(以下、敬称略)は、住居を鶴見に、次いで鎌倉に移した。
昭和4(1929)年
4月
「新カスケードビール」を製造発売。
10年契約で壽屋に入社した竹鶴政孝が8年目を迎えた昭和5年の秋、鳥井信治郎から、
「吉太郎がもうじき学校卒業やが、どやろ、しばらくあんたはんとこで面倒見てくれへんやろか。一人前に仕事でけるようになるまで、10年間と言わずに居ってもらいたいのやが」
鳥井の長男吉太郎(1908年12月23日生れ)は、神戸の高等商業(現神戸大学)に通っていた。6年の春には卒業の予定である。竹鶴から技術を、妻リタから英会話や欧州事情を授けてほしいという鳥井の頼みだ。
「よろしゅおます」
昭和5(1930)年
5月1日
新カスケードビールにつづいて、「オラガビール」を発売する。
昭和6(1931)年
3月1日
吉太郎が壽屋へ入社。直ちに横浜のビール工場に勤務した。
竹鶴は吉太郎を自宅に預って妻リタに英語の手ほどきをさせており、夏からはリタと吉太郎を伴い半年間の予定で欧州に出向くことになっていた。(信治郎の後継者である)吉太郎に本場のウイスキー蒸溜所や葡萄酒醸造所を案内するのが主目的だ。
10月1日
鳥井吉太郎、欧米における業界視察のため出発。(竹鶴政孝、リタ夫妻同行)
昭和7(1932)年
2月
竹鶴がリタと吉太郎を伴い欧州視察から帰国。
3月15日
鳥井吉太郎、取締役副社長に就任。
昭和8(1933)年
8月23日
鳥井信治郎妻クニ死亡(享年46歳)。
もともと契約は10年の約束であったし、その期限の来た昭和7年に私(竹鶴)は退社したいと申し入れたが、保留されていた。
昭和8年、関東では「オラガビール」の買収の話がもち上がってきた。
それと前後して私のところへは本社からビール工場拡張工事の命令が出た。
しかし基礎工事にかかっている最中にビール工場の売り渡しが決定したのである。
工場を大きくする計画と仕事を日夜続けていた工場長の私にとってショックであったことはいうまでもない。
約束の10年間は働いたし、吉太郎もいまは副社長として立派に活躍している。
私もそろそろ40歳になる。独立しようとかたく決意したのはそのときだった。
鳥井さんとはけんか別れではなく円満に退社したのである。
清酒保護の時代に、鳥井さんなしには民間人の力でウイスキーが育たなかっただろうと思う。
そしてまた鳥井さんなしには私のウイスキー人生も考えられないのはいうまでもない。
昭和9(1934)年
2月1日
ビール事業を分離、譲渡。
3月1日
竹鶴政孝氏退社。
竹鶴は吉太郎を可愛がり、いろりろと面倒を見、世話をした。
鳥井に2度、保留されて、契約期間の10年を過ぎて、足掛け11年間壽屋に在籍した。
竹鶴の退職日が吉太郎の入社日からぴったり3年後というところに、いかにも竹鶴の律儀さが出ていると思う。
竹鶴は壽屋在任の前半を山崎のウイスキー工場、後半を横浜のビール工場に勤務した。
ウイスキーに恋した男には、ウイスキーから引き離された横浜の地はあまりにも寂しかったのは想像に難くない。
昭和15(1940)年
9月23日
取締役副社長、鳥井吉太郎死去(享年33歳)。(満31歳)
11月15日
「サントリーウイスキーオールド製作」発表。
「片腕をもぎとられてしもた。日本の医学はあかん」
信治郎は葬式のときにも怒っていた。
信治郎の吉太郎に対する期待は大きかった。若大将、若、若と社員から親しまれ、副社長として信治郎の片腕であった。壽屋が大阪の老舗、おたなの気風を持たず、比較的早い時期に近代化をとげることができたのは、吉太郎の献策に基づくところが大きかった。やがて壽屋をになう存在となる作田耕三、平井鮮一(ともにのちに常務)等々若手学校出の俊秀の採用にそれがあらわれている。
オールドは信治郎、吉太郎親子がブレンドした製品といわれ、社史は「大東亜戦争勃発前夜で、洋酒類にも統制の手がのびはじめ、さすがの信治郎もオールド発売にふみ切れなかった」と記す(一説には、大阪で若干数が出回ったという)。
吉太郎を亡くした信治郎の悲しみがあまりにも深く、一時はまったく事業意欲を失い、オールド発売が立ち消えになったという話をどこかで読んだことがある。
昭和25(1950)年
「サントリーウイスキーオールド」発売。
青字は、サントリー70周年社史より。
黄字は、竹鶴政孝著「ウイスキーと私」より。
緑字は、「ヒゲのウヰスキー誕生す」より。



