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<title>麦溜 [Bakrew] の呑み歩る記。</title>
<link>http://maltwhisky.usukeba.com</link>
<description>ウイスキーを中心に、美味い酒と料理の話。ときどき趣味のことなど。</description>
<language>ja</language>
<pubDate>Fri, 22 Feb 2008 14:23:59 +0900</pubDate>
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<title>摂津酒造（2）。</title>
<description>大正９（1920）年11月（*1）、竹鶴政孝・リタ夫妻、摂津酒造の阿部喜兵衛社長（欧州視察）と伴に、横浜港へ帰国。　*1 「ヒゲのウヰスキー誕生す」より。　　 「ヒゲと勲章」では大正10年９月、「ウイスキーと私」では大正10年11月とある。帰国後の摂津酒造での待遇は技師長で、月給は150円。家賃55円の帝塚山の家は、阿部社長が手配して下さった邸宅（家主はのちにニッカ・ウヰスキー株主の芝川又四郎）であった。帰国してみると、会社の景気といい空気といい、イギリスにたったころの熱っぽさや活気は全く失われ、様相は一変していた。それは摂津酒造が第一次大戦後の大恐慌のあおりをいちばん受けている年（大正10～12年）だったからである。こういった悪い状況のなかであったが、すぐ本格ウイスキーの製造計画に取りかかった。そのかたわら、先輩の岩井常務に説得を始めた。今の工場のあき地にポット・スチルをすえつければ小規模ながらウイスキーがつくれる。やらせてほしいと頼みこんだ。重役会でも阿部社長は「竹鶴君が苦労して勉強してきたのだから、なんとかやらせてみたい」と助け舟をだされたが、全役員から反対されてしまった。「本格モルト・ウイスキー製造計画書」は役員会で否認されたのである。常務の岩井喜一郎は、次のような回顧談を残している。「竹鶴氏は帰国してから、外国ではウイスキーは全部自社ブランドで売っておる。ジョニーウォーカーにしてもホワイトホースにしてもそうだ。だから摂津酒造の如く、よそのブランドのために手間賃いくらで造ったウイスキーを（原料酒として）売っておるというようなことでは、将来マイナスになる。いい品物を造って自社ブランドで出していかなくてはいかん、と力説した。これは大変いいことだと思う。さりながら、当時の摂津の資力ではとてもそんなこと（本格ウイスキーの製造）は出来なかった」さんざん悩み考えたすえ、阿部社長にお会いし辞表を出した。大正11年のことであった。「残念だが・・・」ポツリとただひとこといわれた。あのときの阿部社長の沈んだ顔、恩愛に満ちたあのまなざしは、終生忘れることはできない。阿部社長は私の最大の恩人なのである。私は摂津酒造をやめたとはいえ、非常に恩義を感じていた。後年、独立して待望のウイスキー原酒をつくりあげたとき、北海道からわざわざ大阪の摂津酒造までそれを持っていった。ニッカウヰスキー発売（1940年10月）以前のことである。「どうぞ私の原酒を摂津酒造のアルコールに入れてみて下さい。絶対によくなります」ところが私の真意は理解されず、問題にされなかった。摂津酒造は、洋酒関係は自分のブランドをつけずに卸屋へ売り、卸屋で瓶詰していた。摂津酒造が瓶詰をやれば卸屋の妨害になるから、できなかった。やはりブランドを持っていなかったことが、新しい時代にマッチできなかったのだろう。竹鶴が摂津酒造を訪れたとき、阿部社長は退任していた。昭和29年12月、摂津酒造は灘第二工場を寶酒造に売却。 昭和39（1964）年10月、摂津酒造は寶酒造に吸収合併。　　桃字は、竹鶴政孝著「ヒゲと勲章」より。　　黄字は、竹鶴政孝著「ウイスキーと私」より。</description>
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<category>Japanese Whisky</category>
<pubDate>Thu, 24 Apr 2008 23:00:00 +0900</pubDate>

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<title>摂津酒造（1）。</title>
<description>（右が摂津酒造の阿部喜兵衛社長。左は竹鶴政孝）日本のウイスキーの父、竹鶴政孝（以下、敬称略）は書く。摂津酒造の阿部喜兵衛社長が日本での本格ウイスキーづくりを決意されなかったら、どんなに私がウイスキーづくりに興味をもっていたにせよ、スコットランドに留学することはありえなかった。摂津酒造は、名門であり資産家である阿部喜兵衛氏が、大阪に個人経営でつくった摂津酒精醸造所にはじまる。明治40（1907）年からアルコール製造に着手し、44年からは自社で蒸溜したアルコールをもとに、ブランディ、ウイスキー、甘味葡萄酒などを委託製造した。製法はいぜん模造（イミテーション）だったが、アルコール特有の臭み（フーゼル・オイル）を消すセパレーターの研究が進んでいたため、品質はそれまでの国産にくらべ、格段の差があった。大正２（1913）年にはウイスキーだけで250石（１石＝約180リットル）を製造、翌３年には軍の注文も受けている。主な取引先は「赤門葡萄酒」の小西儀助商店、「ヘルメス・ウイスキー」「赤玉ポートワイン」の壽屋などで、それぞれの注文に応じて調合製造し、一石入りの洋樽に詰めて送り出した。大正４年、第一次世界大戦が勃発した。日本経済は大戦景気に沸き、アルコール蒸溜業界も活況を呈した。すでに定評を得ていた攝津酒造の製品は生産が追いつかないほどであった。大正５年、摂津酒造は会社始まって以来の黄金期を迎えようとしていた。当時、摂津酒造、神谷酒造、大日本製薬が三大アルコール製造会社だった。大正２年、竹鶴政孝、大阪高等工業（現大阪大学）醸造科に入学。大正５年、卒業の年の正月のことであった。郷里に帰り、部屋のコタツでねそべっていた。家業を継ぐことになった私はこのとき、これからの長い人生を竹原という田舎町で、酒づくりに終わってしまうのかという感慨が胸をかすめた。日本酒の仕込みは冬だから卒業の４月末から12月までは、仕事はあまりない。学校で人一倍洋酒に興味をもって勉強してきた私は、この期間だけでもいいから洋酒づくりの仕事を一度実際にやってみたいと思い立った。「やってみたい」そう思い始めると矢も楯もたまらなくなった。当時、洋酒のメーカーの第一人者は、大阪の摂津酒造であった。学校の一期生に摂津酒造の常務・岩井喜一郎氏（竹鶴は14期生）がおられた。「よし、岩井さんに頼んでみよう」岩井さんは、即刻社長の阿部喜兵衛氏を紹介して下さった。私は、家の事情や、洋酒づくりへの憧憬を正直に披瀝した。「洋酒製造の第一人者たる摂津で働きたいのです」「それじゃ、明日から来てみなさい」大正５年３月初旬のことだった。初任給23円。天下の摂津酒造といっても、その規模といえば、事務所に５、６人、工場のほうに30人もいただろうか。私は、職工と同じように作業服を着て、喜び勇んで仕事を続けた。蒸溜のときなど、夜は蒸溜塔の上でまんじりともせずに過ごしたおぼえがある。やがて私は、酒精含有飲料関係の主任に任命された。ある日、社長室に呼ばれた。「いまは好景気だから、ウイスキーもさかんに売れている。けれども、アルコールに水を入れカラメルで色をつけ、エッセンスを入れて香りを加える。いつまでもこんなイミテーション・ウイスキーではいけないから、本格的な品質のよいウイスキーをつくりたい。君、ひとつスコットランドに行って、本場のウイスキーの製造を勉強してきてくれないか！」大正７年６月29日、竹鶴は家族、摂津酒造の役員、社員、壽屋の鳥井信治郎、山為硝子の山本為三郎（のちのアサヒビール初代社長）らに見送られて、神戸港からスコットランドへ向けて出航。　　桃字は、竹鶴政孝著「ヒゲと勲章」より。　　黄字は、竹鶴政孝著「ウイスキーと私」より。　　緑字は、「ヒゲのウヰスキー誕生す」より。</description>
<link>http://maltwhisky.usukeba.com/e18642.html</link>
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<category>Japanese Whisky</category>
<pubDate>Wed, 23 Apr 2008 20:00:00 +0900</pubDate>

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