<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>

<rss version="2.0">
<channel>
<title>麦溜 [Bakrew] の呑み歩る記。</title>
<link>http://maltwhisky.usukeba.com</link>
<description>ウイスキーを中心に、美味い酒と料理の話。ときどき趣味のことなど。</description>
<language>ja</language>
<pubDate>Fri, 22 Feb 2008 14:23:59 +0900</pubDate>
<lastBuildDate>Tue, 08 Apr 2008 15:02:34 +0900</lastBuildDate>
<docs>http://blogs.law.harvard.edu/tech/rss</docs> 
<generator>CLOG</generator>


<item>
<title>山崎蒸溜所＠梅雨の晴れ間。</title>
<description>日本スコットランド協会の秋の講演会「輿水精一チーフブレンダーのウイスキーセミナー」以来、半年振りの山崎蒸溜所探訪だ。阪急・大山崎駅またはＪＲ・山崎駅で下車して、西国街道を西に歩くと、ＪＲの踏切りに出る。84年前の大正13（1924）年７月20日。単式蒸溜器２器が川蒸気に乗せられ、淀川を遡った。陸揚げののちは転子（ころ。回転棒）を使って馬に引かせた。真夜中の（21日）零時半、上り最終列車が通り過ぎるのを見計らい、東海道線の線路を越えてようやく工場内に運ばれた。（「ヒゲのウヰスキー誕生す」より）このとき、竹鶴政孝（以下、敬称略）は蒸溜器の搬入を指揮し、多分、鳥井信治郎（時間があると建設中の山崎蒸溜所に出かけた、と言われる）も立ち合ったはずだ。＜工場を縦貫する道路は公道である。（昨年秋の写真）＞＜踏切り上空辺りから撮られたと思われる航空写真＞写真左上の洋風の建物は、竹鶴政孝・リタ夫妻が住んでいた工場長社宅かも知れない。＜工場見取り図＞大麦の保管庫、製麦棟から始まって、瓶詰棟まで、一貫生産していたのが分かる。＜見取り図と同じアングルから撮られた写真（昭和25年撮影）＞屋外の「ワームタブ型」冷却器（見づらいですが・・・）。蒸溜所設立時の蒸溜器。手入れがされていなくて蒸溜器が可哀そう。「本邦ウイスキー発祥之地」の碑が立つ。山崎には、設立時の建物が一棟も残っていないのが本当に残念だが、この地に立つと、鳥井信治郎、吉太郎親子、竹鶴政孝、リタ夫妻らが行き交っていた姿が目に浮かぶようで、正に余市と共に「日本のウイスキーの聖地」である。</description>
<link>http://maltwhisky.usukeba.com/e21118.html</link>
<guid>http://maltwhisky.usukeba.com/e21118.html</guid>
<category>SUNTORY</category>
<pubDate>Tue, 08 Jul 2008 23:00:00 +0900</pubDate>

</item>

<item>
<title>白州蒸溜所＠スコ文研ツアー。</title>
<description>深緑の白州・鳥原。スコ文研のツアーに参加して、２年半振りに白州蒸溜所を訪れた。前崎久工場長に、直々に蒸溜所の案内と白州原酒の説明をしていただく。圧巻はスコ文研ならではの、前溜液、本溜液、後溜液のサンプル二十数本。全員で、すべてのサンプルをノージング。（残念ながらテースティングは、させてもらえなかった）本溜液を、どこから取り始め、どこで切るかは、企業秘密とのこと。（笑）初めて見るサントリーの樽焼。初溜、再溜で12基ある蒸溜器のうち、１基だけ「ワームタブ」型冷却器だ。貯蔵庫内の一画にある「The Owner's Cask」専用の試飲室。テースティングは、白州シングルモルト10年、12年、18年、25年。12年のホッグスヘッド原酒、スモーキー原酒、シェリー樽原酒の７種。サントリーの前村工場長およびスタッフ、スコ文研の土屋代表およびスタッフの方々、ありがとうございました！</description>
<link>http://maltwhisky.usukeba.com/e21545.html</link>
<guid>http://maltwhisky.usukeba.com/e21545.html</guid>
<category>SUNTORY</category>
<pubDate>Mon, 07 Jul 2008 01:00:00 +0900</pubDate>

</item>

<item>
<title>山崎蒸溜所（6）。</title>
<description>サントリー70周年社史を読んでいて、鳥井信治郎（以下、敬称略）のつぎに魅力的なのが、作田耕三（のちの常務取締役）である。信治郎は、昭和２（1927）年９月１日付で、社長を「主人」または「大将」と呼ぶよう社内通達を出している。長男の吉太郎は副社長であったけれど、「若大将」または「若」と呼ばせたのである。三井、三菱、住友などの大会社の社長だけが社長であって、壽屋などは大将でいい。会社員やないで、学者やないで、技術者やないで、大阪商人なんやで、というのが信治郎の信念だった。作田はその壽屋の大番頭だった人物だ。入社間もないころ、作田の父が死んだ。作田は壽屋の社員には誰一人知らせずに、いっさい隠密裏に葬式をあげようと考えていた。ところが葬儀場へ行ってみると、作田より早く、壽屋の全社員が集合しているではないか。作田はつぎの瞬間に目を見はった。信治郎が指揮しているばかりでなく、副社長の吉太郎ともども雑用や力仕事をひきうけて動き廻っていた。葬儀の時間が近づくと。信治郎は受付に立って会葬者に挨拶していた。葬儀が終って、寺から家にもどろうというときに、作田の母の乗る自動車の用意がしてなかった。「お母さんの車をどないするんや」大声で叫んだかと思うと、信治郎は、もう駆けだしていた。やがて一台のタクシーが作田の母のまえに着いた。作田の母がいくら遠慮しても信治郎は助手席から降りようとしない。信治郎は、そうやって作田の母を自宅まで、自分で送っていったのである。葬儀で、もっとも傷心しているのは夫を喪った妻である。作田耕三は泣いた。心底からの涙が出てきた。作田がこの人と一生を共にしようと決意したのは、その時である。作田はマルキストで、徳田一球以下、共産党の幹部が家に泊まり込んだこともあったという。信治郎はそんな作田を片腕として重用する。「あいつは偏屈や」信治郎はそういうだけである。名を捨てて実を取るといっても、まさに極まれりという感がある。大阪商人の真骨頂である。つまり、それだけ作田には社内的な実力があったのである。戦後、この作田が会社の責任を一人で負って、23日間、警察に拘留される事件が起きた。作田は自殺するのではないかと思われていた。差し入れとして、作田は睡眠薬を頼んだ。信治郎は、毎日一粒ずつしか渡さなかった。「これには弱った」作田はそう言って笑う。純粋マルキストである作田は留置場なんか屁とも思っていなかった。寝苦しいというだけが辛かったのである。「わては、会社のためには死なへんで。わてが死をえらぶとしたら、そら日本人民のためや。大将にはそれがわかってへん」これも戦後の戦後の話になるが、信治郎と作田が大阪の焼野原を歩いていた。作田が言った。「これ買占めまひょ。いまやったら安いし、必ず値あがりしよりま」すると、日頃、ゼニ、ゼニといって血まなこであるはずの信治郎は、ちらりと作田を眺め、「わてらはウイスキー屋だっせ」といった。「不動産屋と違いまっせ」なんとも奇妙な大将と大番頭である。</description>
<link>http://maltwhisky.usukeba.com/e18510.html</link>
<guid>http://maltwhisky.usukeba.com/e18510.html</guid>
<category>SUNTORY</category>
<pubDate>Sat, 19 Apr 2008 23:00:00 +0900</pubDate>

</item>

<item>
<title>山崎蒸溜所（5）。</title>
<description>昭和３（1928）年12月１日、日英醸造のビール工場（のちのオラガビール）を買収、横浜工場とする。山崎、横浜両工場の工場長兼任を命じられた竹鶴政孝（以下、敬称略）は、住居を鶴見に、次いで鎌倉に移した。昭和４年４月、ビール発売。10年契約で壽屋に入社した竹鶴政孝が８年目を迎えた昭和５年の秋（？）、鳥井信治郎から、「吉太郎がもうじき学校卒業やが、どやろ、しばらくあんたはんとこで面倒見てくれへんやろか。一人前に仕事でけるようになるまで、10年間と言わずに居ってもらいたいのやが」鳥井の長男吉太郎（1908年12月23日生れ）は、神戸の高等商業（現神戸大学）に通っていた。６年の春には卒業の予定である。竹鶴から技術を、妻リタから英会話や欧州事情を授けてほしいという鳥井の頼みだ。「よろしゅおます」昭和６年３月１日、吉太郎が壽屋へ入社。直ちに横浜のビール工場に勤務した。竹鶴は吉太郎を自宅に預って妻リタに英語の手ほどきをさせており、夏からはリタと吉太郎を伴い半年間の予定で欧州に出向くことになっていた。（信治郎の後継者である）吉太郎に本場のウイスキー蒸溜所や葡萄酒醸造所を案内するのが主目的だ。10月１日鳥井吉太郎、欧米における業界視察のため出発。昭和７年２月、竹鶴がリタと吉太郎を伴い欧州視察から帰国。３月15日鳥井吉太郎、取締役副社長に就任。もともと契約は10年の約束であったし、その期限の来た昭和７年に私（竹鶴）は退社したいと申し入れたが、保留されていた。昭和８年、関東では「オラガビール」の買収の話がもち上がってきた。それと前後して私のところへは本社からビール工場拡張工事の命令が出た。しかし基礎工事にかかっている最中にビール工場の売り渡しが決定したのである。工場を大きくする計画と仕事を日夜続けていた工場長の私にとってショックであったことはいうまでもない。約束の10年間は働いたし、吉太郎もいまは副社長として立派に活躍している。私もそろそろ40歳になる。独立しようとかたく決意したのはそのときだった。鳥井さんとはけんか別れではなく円満に退社したのである。清酒保護の時代に、鳥井さんなしには民間人の力でウイスキーが育たなかっただろうと思う。そしてまた鳥井さんなしには私のウイスキー人生も考えられないのはいうまでもない。昭和９（1934）年２月１日、ビール事業を分離、譲渡。３月１日、竹鶴政孝氏退社。竹鶴は吉太郎を可愛がり、いろりろと面倒を見、世話をした。鳥井に２度、保留されて、契約期間の10年を過ぎて、足掛け11年間壽屋に在籍した。竹鶴の退職日が吉太郎の入社日からぴったり３年後というところに、いかにも竹鶴の律儀さが出ていると思う。竹鶴は壽屋在任の前半を山崎のウイスキー工場、後半を横浜のビール工場に勤務した。ウイスキーに恋した男には、ウイスキーから引き離された横浜の地はあまりにも寂しかったのは想像に難くない。昭和15（1940）年９月23日、取締役副社長、鳥井吉太郎死去（享年31歳）。11月15日、「サントリーウイスキーオールド製作」発表。「片腕をもぎとられてしもた。日本の医学はあかん」信治郎は葬式のときにも怒っていた。信治郎の吉太郎に対する期待は大きかった。若大将、若、若と社員から親しまれ、副社長として信治郎の片腕であった。壽屋が大阪の老舗、おたなの気風を持たず、比較的早い時期に近代化をとげることができたのは、吉太郎の献策に基づくところが大きかった。やがて壽屋をになう存在となる作田耕三、平井鮮一（ともにのちに常務）等々若手学校出の俊秀の採用にそれがあらわれている。オールドは信治郎、吉太郎親子がブレンドした製品といわれ、社史は「大東亜戦争勃発前夜で、洋酒類にも統制の手がのびはじめ、さすがの信治郎もオールド発売にふみ切れなかった」と記す（一説には、大阪で若干数が出回ったという）。吉太郎を亡くした信治郎の悲しみがあまりにも深く、一時はまったく事業意欲を失い、オールド発売が立ち消えになったという話をどこかで読んだことがある。昭和25（1950）年、「サントリーウイスキーオールド」発売。　　青字は、サントリー70周年社史より。　　黄字は、竹鶴政孝著「ウイスキーと私」より。　　緑字は、「ヒゲのウヰスキー誕生す」より。</description>
<link>http://maltwhisky.usukeba.com/e18394.html</link>
<guid>http://maltwhisky.usukeba.com/e18394.html</guid>
<category>SUNTORY</category>
<pubDate>Fri, 18 Apr 2008 23:00:00 +0900</pubDate>

</item>

<item>
<title>山崎蒸溜所（4）。</title>
<description>鳥井信治郎（以下、敬称略）が竹鶴政孝を招聘するに当って合意した条件は三つ。　　１．ウイスキー製造に関してはすべて竹鶴に任せる。　　２．そのために必要な資金を用意する。　　３．竹鶴は製造が軌道に乗るまで10年間は働く。サントリー70周年社史は書く。「大正の末（大正13年、山崎工場竣工）から昭和12年（サントリーウイスキー角瓶発売）までにサントリーの今日の基礎が築かれていったと考えてよいと思う」いくら赤玉ポートワインその他で儲けても、利益をどんどん吸いとる一方である。まことに「ウスケ」は化け物だった。その間、信治郎は手をこまねいていたわけではなかった。いや、むしろ、ウイスキーのために、他の事業を拡張しなければならない。大正13（1924）年10月、パームカレー発売。レチラップ（レモンティーシロップ）発売。大正15（1926）年喫煙家用半練の「スモカ歯磨」発売。昭和３（1928）年山崎醤油、トリスソース発売。12月１日、日英醸造株式会社（カスケードビール）を買収し、横浜工場（竹鶴が工場長を兼任）とする。昭和４（1929）年４月１日、日本発の本格ウイスキー「サントリー白札」発売。４月、カスケードビール発売。昭和５（1930）年５月、商品名をオラガビールに改称。トリスカレー、トリス胡椒発売。昭和６（1931）年トリス紅茶発売。昭和６年には仕込みを行わなかった。出来なかったのである。金が底をついたのである。従って壽屋の酒庫には「1931」という年号を記した樽が無いのである。昭和７（1932）年５月、合成清酒「千代田」発売。６月、濃縮リンゴジュース「コーリン」発売。11月、ドル箱のスモカ歯磨の製造販売権を譲渡。昭和９（1934）年２月、ビール事業を分離、譲渡。67万円で買収したビール工場の売却価格は300万円とも360万円ともいわれた。（*1）「竹鶴はん、知ってのとおり、わてらの台所火の車やったんや。さあ、もう安心やで」　*1 金額は諸説あり。昭和10（1935）年リンゴ酒シャンパン「ポンパン」、「ヘルメスデリカワイン（赤・白）」、「ヘルメスシャンパン」発売。昭和11（1936）年濃縮ジュース「トリスグレープジュース」「トリスオレンジジュース」、「ヘルメスドライジン」、「ヘルメスイタリアンベルモット」、「カンロチュウ」発売。昭和12（1937）年「サントリーウイスキー12年もの（亀甲型）」（角瓶）を発売。サントリーウイスキー角瓶にいたるまでにこれだけの歴史があった。戦いに敗れ、傷つき、退いた。紅茶、ソース、醤油、カレーなどがそれだろう。ひとつの柱であったスモカを手ばなした。昭和12年、13年に、次第に、サントリーは日本人の舌に浸透していった。14年、15年には、売れて売れて困るという事態を招来する。壽屋の社員には、年間のボーナスが40ヶ月も50ヶ月も支給された。（現在のサントリー角瓶に印刷された鳥井信治郎のサイン）鳥井は竹鶴との約束どおり、ウイスキー製造に必要な資金を遮二無二、用意したのである。</description>
<link>http://maltwhisky.usukeba.com/e18392.html</link>
<guid>http://maltwhisky.usukeba.com/e18392.html</guid>
<category>SUNTORY</category>
<pubDate>Thu, 17 Apr 2008 23:00:00 +0900</pubDate>

</item>

<item>
<title>山崎蒸溜所（3）。</title>
<description>（発売当初の赤玉ポートワイン＜右＞とサントリーウィスキー白札）摂津酒造（注釈：昭和39年10月、寶酒造（現宝ホールディングス）に吸収合併）は明治40（1907）年からアルコール製造に着手し、明治44年からは自社で蒸溜したアルコールをもとに、ブランディ、ウイスキー、甘味葡萄酒などを委託製造した。主な得意先は「赤門葡萄酒」の小西儀助商店、「ヘルメスウイスキー」「赤玉ポートワイン」の壽屋など。独立して間もなく、鳥井信治郎（以下、敬称略）にはラッキーな事件が起こった。当時、業界の王座を占めていた蜂印香鼠葡萄酒が小売店の陳列棚で沸騰したのである。一軒だけでなく、次々に爆発した。製造上の手ちがいがあったのだろう。このために赤玉ポートワインの人気が上昇した。竹鶴政孝が当時手がけていた有名銘柄の一つに、壽屋の「赤玉ポートワイン」があった。この製品を作っていた年（注釈：大正５年と推測される）、各地の店頭で甘味葡萄酒が爆発する騒ぎが起った。殺菌が不充分なため、生き残っていた酵母がおりからの暑さで醗酵してしまったのである。ところが「赤玉ポートワイン」だけは１本も割れなかった。「今度来やはった技師さんは腕がよろしゅうおますな、いうて、壽屋の鳥井はん喜んではった」摂津酒造の阿部社長は自分のことのように喜びながら竹鶴に伝えた。 英国留学の出発当日（大正７年６月29日）、正午を廻って出航時刻が近づくと、神戸港第二波止場、通称メリケン波止場は見送りの人並みで埋まった。竹鶴のまわりにも厚い人垣の輪ができていた。阿部社長、岩井専務以下摂津酒造の全社員、竹原の両親と姉妹たち、取引先関係者のなかには壽屋の鳥井信治郎、この秋に日本製壜を興すことになっている山為硝子の山本為三郎（のちのアサヒビール初代社長）の顔も見える。信治郎がウイスキーの製造を発表すると、壽屋の全役員が反対した。・スコットランド以外の土地でウイスキーが成功した例がない。・ウイスキーをつくるには、6年も７年も原酒を寝かせなければならない。その間の資金や金利をどうするのか。・樽をあけたあとでも、いいものが出来ているか悪いものが出来ているかわからない。しかし、信治郎はすべての反対を押しきってしまった。信治郎は理屈めいたことをいわなかった。「やってみなはれ。やらなわかりまへんで」信治郎は、三井物産に頼んで、本場のイギリスからムーア博士を招く計画をたてていた。そのとき、イギリスでウイスキーづくりを勉強して帰ってきた青年技師がいることを（ムーア博士から）教えられた。それが竹鶴政孝である。竹鶴はつい最近摂津酒造を退社、現在は勤めに就いていないはずだ、とも付記してあった。そうや、竹鶴君がおりよった。鳥井は５年前、青年の洋行に当って神戸港に見送りに出かけたことを思い出した。摂津酒造と取引きが少なくなるにしたがい（注釈：大正８年、大阪市港区に赤玉ポートワイン瓶詰専用工場を建設）疎遠になっていたが、あの竹鶴なら腕も人物も信用できる。同じ招くなら、外国人より日本人の方が何かと好都合ではないか。高額な年俸4,000円（注釈：総理大臣が1,000円）も当初、ムーア博士招聘の条件として提示した額だという。同じ仕事をして貰うんやさかい、当然同じおあし払わせて貰います。鳥井がここまで自分を信じてくれるのかと思うと、竹鶴は嬉しかった。　　青字は、「サントリー70周年社史」より。　　緑字は、「ヒゲのウヰスキー誕生す」より。</description>
<link>http://maltwhisky.usukeba.com/e18396.html</link>
<guid>http://maltwhisky.usukeba.com/e18396.html</guid>
<category>SUNTORY</category>
<pubDate>Wed, 16 Apr 2008 23:00:00 +0900</pubDate>

</item>

<item>
<title>山崎蒸溜所（2）。</title>
<description>鳥井信治郎（以下、敬称略）の頭のなかに、いつごろからウイスキー製造の野望が芽生えていたのだろうか？　（以下は「サントリー70周年社史」より）　　++++++++++明治32（1899）年 （20歳）２月１日鳥井信治郎、大阪市西区靭中通二丁目に鳥井商店を開業し、葡萄酒の製造販売を始める。明治40（1907）年 （28歳）４月１日甘味葡萄酒「赤玉ポートワイン」を製造発売。明治44（1911）年 （32歳）２月１日ヘルメスマークを商標登録。「ヘルメスウイスキー大角」を製造発売。明治の末年には、赤玉ポートワインのほかに、ウイスキー、ブランデー、リキュール類の各種洋酒を手がけるようになる。このときのウイスキーが「ヘルメスウイスキー角瓶」である。まだ、イミテーションの段階だった。大正８（1919）年 （40歳）９月１日「トリスウイスキー」を製造発売。赤玉ポートワインは依然として好調であったが、信治郎は、次の新製品を考えていた。あるとき、輸入洋酒の樽に、出来の悪い、使いものにならないアルコールを詰めておいたことを思い出した。ためしにこれを飲んでみると、いい味になっている。偶然、不純なアルコールが貯蔵によってウイスキーになることを知ったのである。後に、本格ウイスキーに命がけで取りくむようになったそもそもの発想につながってくるのである。すばしこい信治郎のことだから、この樽にできたウイスキーに、自分の名前をつけて「トリスウイスキー」として発売した。たった一樽だから、すぐに品切れになってしまったが・・・。11月「ヘルメスウイスキー特丸」を製造発売。大正９（1920）年 （41歳）３月１日瓶詰ハイボール「トリスウイスタン」を製造発売。ウイスキー炭酸をちぢめたのが命名の由来である。これは一部では好評を博したが、売行きがいいとはいえなかった。いくらなんでも発売時期が早すぎたのである。大正12（1923）年 （44歳）10月１日用地を買収し、山崎工場建設準備に着手。関東大震災のあった大正12年の10月、ついに信治郎は京都郊外山崎の地で、ウイスキー製造への第一歩を踏みだした。それより前ずいぶん早くから、信治郎の頭のなかにはウイスキー製造の野望が芽生えていた。明治の末年にはすでにヘルメスウイスキーという一種の混合酒があり、大正に入って例のトリスウイスキーというハプニングがあり、ウイスタンの失敗があった。信治郎は、ずっとウイスキーに関心があり、それが次第に深まっていった。「やってみなはれ」彼は自分にむかって呟いたにちがいない。それは試行錯誤というべきものであり、猪突猛進であった。　　++++++++++人気商品「赤玉ポートワイン」の稼ぎを山崎蒸溜所に注ぎ込んだ話は有名だ。（昭和25年当時の山崎工場）</description>
<link>http://maltwhisky.usukeba.com/e18346.html</link>
<guid>http://maltwhisky.usukeba.com/e18346.html</guid>
<category>SUNTORY</category>
<pubDate>Tue, 15 Apr 2008 23:00:00 +0900</pubDate>

</item>

<item>
<title>山崎蒸溜所（1）。</title>
<description>ご存知のように、日本で最初のウィスキー蒸溜所である。壽屋（現サントリー*1）創業者・鳥井信治郎(*2)（以下、すべて敬称略）がいなかったら、日本のウィスキー産業の成立はかなり遅れただろうし、竹鶴政孝(*3)は一介の化学の教師で終わり、ニッカウヰスキーは生まれていなかったかも知れない。　*1 鳥井の死後、1963年に社名変更。　*2 1879年1月30日 - 1962年2月20日（享年83歳）　*3 1894年6月20日 - 1979年8月29日（享年85歳）山崎蒸溜所の建設からサントリーオールドの誕生までを、手元の「サントリー70周年社史」（1969年。青字で表示。以下の写真は社史より）と、「ヒゲのウヰスキー誕生す」（1982年。緑字で表示）をもとに年表にしてみた。　　++++++ 山崎蒸溜所年表 ++++++大正12（1923）年春　　　　鳥井信治郎が竹鶴政孝を訪ねて、入社を要請。鳥井から提示された条件は３点。　　１．ウイスキー製造に関してはすべて竹鶴に任せる。　　２．そのために必要な資金を用意する。　　３．竹鶴は製造が軌道に乗るまで10年間は働く。６月竹鶴政孝入社。７月７月27日付「工場候補地議定書」には、「山崎駅付近は水質最も良く、且つ河水の便あり。交通よくして理想なる敷地あり」と記す。10月１日かねて企画研究中の国産ウイスキー醸造の成案を得、まず大阪府三島郡島本村大字山崎に、用地を買収、工場建設準備に着手。再度にわたる水質検査を経て、10月1日に用地買収を済ませた。壽屋は大阪東区住吉町に店舗を構えていた。その一角に、山崎工場建設事務所が設置された。12月28日ウイスキー製造免許に関する申請書を大阪税務監督局へ提出。大正13（1924）年４月７日山崎工場にウイスキー製造免許下付される。４月15日山崎工場、起工式挙行。７月山崎工場予定地では、着々建築が進んでいた。７月20日単式蒸溜器２器が川蒸気に乗せられ、淀川を遡った。陸揚げののちは転子（ころ。回転棒）を使って馬に引かせた。真夜中の零時半、上り最終列車が通り過ぎるのを見計らい、東海道線の線路を越えてようやく工場内に運ばれた。10月ウイスキー職人を養成するにあたり、竹鶴が真先に思い浮かべたのは、郷里竹原の隣町三津の杜氏だった。杜氏を監督に据え、ほかに蔵人を15名ほど雇い入れて配置するつもりだ。杜氏ら一行が到着したのは、竣工式直前の10月下旬だった。ウイスキーの製造期間は10月から５月までである。工場では季節雇いの職工が大部分を占め、壽屋正社員は工場長の竹鶴、事務担当の白江滋道二人だけだった。11月11日山崎工場竣工、12月より蒸溜作業を開始。12月２日麦芽製造が開始された。第一号浸漬槽（スティーブ）に浸されたのは午後3時。２週間ほどののち　大麦は乾燥室に運ばれ、豊かな薫香をもつ麦芽として生れ変った。（原料麦の発芽室）大正14（1925）年１月麦芽は糖化、発酵を経ていよいよ蒸溜を迎えた。蒸溜を終えた液体はシェリー酒用酒樽に詰められ、倉庫に運ばれた。（初期のポットスティル）大正12年に入社した白江滋道は、山崎工場勤務を命ぜられた。わるいときに入社してしまった。毎年、麦を仕入れるだけで製品が出ていかないのである。「早う製品にならんかいな」本社へ顔をだすたびに、いやみな皮肉を言われることになる。昭和３（1928）年秋秋を迎えたある日のことである。「竹鶴はん。今度の冬で丸４年だすな」鳥井が何を言いたいのか、竹鶴は次の言葉を聞くまでもなくわかった。竹鶴は発売に向けて、大阪工場でできたアルコールとブレンドする手筈を整えた。12月22日会社事業目的にウイスキー、麦酒の製造販売を加える。昭和４（1929）年４月１日　山崎工場に貯蔵をつづけた原酒を瓶詰し、わが国初の本格ウイスキー「サントリーウイスキー白札」を発売。（国産ウィスキー第一号を記念して）昭和５（1930）年５月１日「サントリーウイスキー赤札」を発売。「サントリーウイスキー白札ポケット瓶」を発売（最初のポケット瓶）。鳥井、竹鶴の契約期間延長を打診。鳥井　「吉太郎がもうじき学校卒業やが、一人前に仕事でけるようになるまで、10年間と言わずに居ってもらいたいのやが」竹鶴　「よろしゅおます」この年の山崎工場年間の庫出数 2,125ケース。昭和６（1931）年３月１日長男鳥井吉太郎入社。10月１日鳥井吉太郎、欧米における業界視察のため出発。山崎工場年間の庫出数 4,542ケース。このころから海外市場（満・韓・東南アジア）へ輸出を始める（354ケース）。（注釈：この年、資金不足でウイスキーの仕込みを中止）昭和７（1932）年２月竹鶴がリタと吉太郎を伴い欧州視察から帰国。３月15日鳥井吉太郎、取締役副社長に就任。10月１日10年貯蔵の「サントリーウイスキー特角」を製造発売。山崎工場年間の庫出数 10,230ケースとなる（輸出1,271ケース）。昭和９（1934）年１月17日サントリーウイスキーを禁酒解禁後のアメリカへ輸出（1,667ケース）。３月１日竹鶴政孝氏退社。７月２日大日本果汁株式会社設立（現ニッカ）。昭和10（1935）年戦前のバー全盛時代、銀座で500軒に達す。昭和12（1937）年10月８日「サントリーウイスキー12年もの角瓶（亀甲型）」を発売。12月10日山崎工場増築に着手（翌3月に完了し、延建坪1,799坪となる）。昭和13（1938）年５月10日大阪梅田に当社直営のサントリーバーを開店し、当社洋酒製品のＰＲを行なう。昭和14（1939）年山崎工場ウイスキー年間庫出数 23,600ケースとなる（軍納3,150ケース）。昭和15（1940）年９月23日取締役副社長、鳥井吉太郎死去（享年31歳）。11月15日「サントリーウイスキーオールド製作」発表。昭和25（1950）年「サントリーウイスキーオールド」発売。</description>
<link>http://maltwhisky.usukeba.com/e17385.html</link>
<guid>http://maltwhisky.usukeba.com/e17385.html</guid>
<category>SUNTORY</category>
<pubDate>Mon, 14 Apr 2008 23:00:47 +0900</pubDate>

</item>


</channel>
</rss>